なんで人はブログや詩、物語を書くのかを考えていた。
自分の人生において、どんなときに文章を書いていたのか。
人から見返りを期待することや結果を求めない文章を。
思い当たったのは、孤独を感じていたとき。
小学校で周りと家庭環境が違ってうまくなじめなかったとき。
近しい人の死に触れたときや、取り返しのつかない大きな失敗をして自責の念にかられているとき。
誰かに聞いて欲しくても誰にも相談はできず、でも心は晴れず、それでも誰かに読んでほしくて、助けてほしくて、共感してほしくて、文章や歌詞を書いていた気がする。
カウンセラーのようなプロに相談するというのも手だと思うが、私には合わなかった。
どうしても心が開けなかった。
小学生のとき、親の病気の関係で数回カウンセラーに通ったが、カウンセラーに対して、
「この人に、私の苦しみのなにが分かるんだ」
「一体、この人に話して何が解決するんだ」
という気持ちでしかカウンセリングを受けることができなかった。
結局、カウンセリングを受けて良かったことは血液検査の結果(成長ホルモンが通常の2倍くらいあってすごい!となった)くらいで、家庭の問題は何も解決しなかったし、できなかった。
社会人になってからも一度カウンセリングに行ったことがある。
仕事で成果が出せず、業務は連日とても忙しく、気分はモヤモヤした状態が続いていて、趣味の映画を観なくなり、人と話すのがつらくなっていたとき。
完全に負のサイクルにはまっていたと思う。
このとき、原因が欲しくてカウンセリングにいった。
でも小学生のときと同じような感じで、「この人は仕事で私の話を聞いており、給与をもらっていて、共感してくれているわけでない」といったような気持ちになってしまい、うまく話せなかった。
最終的に、「ちょっと鬱っぽい」という診断をもらっただけでなにも解決せずに終わった。
カウンセリングをしてくれた人が合わなかったのか手法が合わなかったのかもしれないが、次に行く気は起きなかった。診療費けっこう高いし。
(行った場所とタイミングが悪かったのか、終始泣き続けている人が数名居て、居心地がとても悪かった
人間、誰しも誰かに聞いてもらいたくても、誰にも相談できないことがあると思う。
ただ話を聞いてくれて、自分への評価を変えずにいてくれる人なんて、そう簡単には見つからない。
全く同じ体験をしている人なんていないし、共感しているフリはできても、本当の意味での共感はできないんじゃないかと思っている。
その結果の一種の逃避行動が創作なんじゃないかと思っている。
伝えたくても伝えられないときに創作するんじゃないかと。
私は文章を書くと癒やされる。
カウンセリングよりもずっと。
モヤモヤしてぐちゃぐちゃになった自分の感情の輪郭のようなものが少しはっきりする。
感情を自分から引っ剥がして、それを自分として受け止めることができる気がする。
世の中には、映画や音楽のようなコンテンツから大自然やスポーツまで色々なものが癒してくれる。
受け身なものだけでなく、自らが何かを創り出す、創作もそのひとつだと思う。
歌人や小説家が己の人生の苦しみ、悲しみを創作で表現したように。
それですべてが解決はするわけではないけど、作者も少しは救われたんじゃないかと思っている。
思いを吐き出して、形にすることでしか、解決できない問題もある。
誰にも相談できない、相談しようがないことこそ、文章にしたり、創作にしようと思う。
それが自分を孤独から救ってくれると信じて。